日本酒物語

第四話:大和から平安京へ

大和朝廷の政治組織が次第に整えられ、律令制が施かれて中央集権的国家が確立すると、宮内省の中に造酒司(さけのつかさ)という役所が設けられ、酒は民衆からはなれて朝廷のために造られるようになりました。

当時、朝廷や貴族たちは何かにつけて酒宴を催していたので、造酒司は重要な存在で、長官の造酒正(さけのかみ)は相当な高官が着いていました。 都が平安京に移り、藤原氏を頂点とする王朝時代に入ってもこの体制は変わらず、貴族の生活はさらに派手になりましたが、反面、庶民への禁制はきびしく、魚を食べることも、酒を飲むことも許されませんでした。

一方、この平安朝初期には、醍醐天皇の命で朝廷の年中儀式ほか諸規定をまとめた『延喜式』が編纂され(延喜5年=905年着手、延長5年=927年 完成)、ここに原始からの10種類余の酒について詳しく述べています。

この中には、現在も伊勢神宮と宮中で造られている『白酒(しろき)』と『黒酒(くろき)』があります。この酒は現在と同じく米と麹と水で仕込み、10日間で熟成させています。このままのものが白酒(しろき)で、これに木灰(きばい)を加えて酸を中和させたものが黒酒(くろき)です。

高級酒と雑給酒

ほかに、『御酒(ごしゅ)』、『禮酒(れいしゅ)』、『三種糟』など、朝廷の儀式や酒宴用の高級酒と、『頓酒』、『汁糟(じゅうそう)』、『粉酒(こさけ)』など下級官吏用の雑給酒が造られており、いずれも甘口の酒でした。

このなかで代表的な『御酒』の造り方を見ると、原料も醪日数も『白酒』と同じですが、搾った酒を今度は水代りにして再び蒸米と麹を仕込みます。これを4回くり返すとあります。これは八岐大蛇を退治するのに造ったという『八塩折之酒(やしおりのさけ)』と同じです。

また、意外なのは『三種糟』です。原料の一部に、ビールに使う麦芽や栗が使われていることです。律令は唐制を下敷きに作られたものなので、この新しい律令国家のもとで編纂された『延喜式』ですから、酒造法にも中国の影響があったのではないかと見られています。

平安京にも酒屋が

ところで、禁酒を命じられていた庶民はその後どうなったでしょうか。実は京の街ではわが国に酒造りを伝えたと言われる帰化人秦氏の子孫が貴族たちを相手にあちこちで酒屋業を始めていました。ですから、庶民に対する禁令も実際には徹底できず、市井でも酒造りが盛んに行われるようになり、貴族たちの酒が庶民の酒になっていきました。
因みに、酒の神社松尾大社は秦氏の祖が勧請したと言われています。