日本酒物語

第六話:「柳酒」から僧坊酒

鎌倉時代末期から室町初期にかけて一世を風靡した「柳酒」を頂点に、洛中洛外に234軒もの造り酒屋が現れたのには二つの理由がありました。

京都には荘園の領主たちが多く住んでいたため、各地から年貢米が集まり、米の市場があって、ここで取り引きされたので、酒の原料米が容易に手に入りました。 その上、酒造りには欠かせない米麹の製造と販売の権利を北野神社が持っていたので、この神社の周辺に麹製造業者が多数店を開いていましたから、造り酒屋が増えるのは当然でした。

ところが室町中期になると、さしも名高かった柳酒にかげりが見えて来ました。「柳酒は甘すぎる」という声が出始めたのです。 かわりに、河内の「天野酒」ほか大きな寺院で造った酒が旨いと評判になり、僧坊酒と呼ばれ都の公家や武士の間でもよく飲まれるようになりました。 有名な豊臣秀吉の醍醐の花見では諸国から銘酒を集めたそうですが、秀吉は「天野酒」を殊のほか好んでいたそうです。

二段仕込みが始まっていた

これまでの酒造りは、蒸し米と麹と水を一度に甕(かめ)に仕込んでいました。しかし、これまではアルコール分の稀(うす)い酒しか出来ませんでした。そこでこの僧坊酒では一歩進んだ方法がとられていました。当時の寺院は、現代の大学のようなもので優秀の学僧たちが集まっていましたから彼らが考えたのでしょう。
醪の発酵が終わってもすぐに漉さず、もう一度蒸し米と麹を添えてアルコール分を濃くしていたのです。二段仕込みの始まりでした。

南都(奈良)諸白から三段仕込みに

「天野酒」が人気になっている間に、奈良の僧坊ではさらに一歩も二歩も進んだ酒造りが行われていました。奈良市東南の渓谷に僧坊86という大伽藍を誇る菩提山正暦寺(ぼだいせんしょうりゃくじ)の「菩提泉(ぼだいせん)」でした。

米と麹で酒を造るようになって以来、酒は麹は玄米でつくり、掛米だけ白米で造っていました。それを正暦寺では、麹も白米でつくりました。両方を白米でつくったので「諸白(もろはく)」と言いました。 しかも、生米を使う独特の方法で強いもと(酒母=菩提もと)を造り、芳醇な酒を醸し出していました。

正暦寺の酒造りはそれだけではなく、仕込みは3回に分ける「三段仕込み」を行い、細長い酒袋に醪を入れて搾る「上槽(じょうそう)」をして、さらに酒を加熱して腐敗を防ぐ「火入れ」(低温殺菌)をするという現代の酒造技術の骨格を作り上げていたのです。

フランスのルイ・パスツールがブドウ酒を低温殺菌して有名になったのは、それから300年もあとのことでした。 こうして京都の市場に出た「南都諸白」はたちまち「天野酒」を圧倒して、天下第一の名声を博したということです。