日本酒物語

第八話:伊丹から灘へ

「丹醸(たんじょう)、丹醸」ともてはやされた伊丹の酒は、近くの池田の酒とともに江戸でも評判になり、3斗5升入りの樽2樽を馬の背に振り分けて(これを一駄〔いちだ〕と言います)灘まで運び、ここから船で江戸送りしていました。
それが、江戸中期の宝暦4年(1754)、米の値段が低落したため、幕府は「酒勝手造り」の令を出して自由競争させました。これがきっかけとなって、造り酒屋が酒をすぐ船積みできる灘に集まって来ました。その頃から伊丹、池田の酒にかげりが見えはじめ、灘の酒が注目されるようになって来ました。

足踏精米から水車精米へ

江戸時代中期あたりまではどこでも足踏精米をしていましたが、灘には六甲山系から多くの川が流れているので、この川の流れを利用して水車精米を始めました。足踏みだとせいぜい8分搗(づ)きでしたが、水車精米だと2割5分から3割5分搗(つ)けるようになったので酒質が一段とよくなりました。

十水(とみず)の効果

さらに灘酒の画期的な変化は、十水(とみず)[蒸米10石に対して水1石]と水の量を増やしたことです。これで、現在私達が飲んでいるのとほぼ同じ酒が大量に造られるようになりました。そして、仕込み桶も益々大型化して、千石蔵が出現していました。

杜氏が丹波から

大量の酒を造るには、それだけ人手が必要です。ちょうどその頃から始まっていたのが農民たちの出稼ぎでした。灘の造り酒屋には丹波の農民たちがやって来ましたが、丹波はその昔灘に匹敵する酒造地だったので、農民たちは酒造りをある程度知っていたからでした。丹波の杜氏たちは、ここで次第に腕を磨き、全国の杜氏の目標となりました。

宮水の発見

灘の酒がさらに有名なったのは江戸末期でした。魚崎村の酒造家山邑(やまむら)太左衛門は地元と西宮の両方で酒を造っていましたが、いつも西宮の蔵の方がいい酒が出来ていました。不思議に思って、二つの蔵で同じ酒米を使ったり、蔵人を交代させたりしましたが、それでも西宮の蔵の方がいい酒が出来ました。
そこで、「これは水か?」と判断、魚崎の蔵でも西宮の水を使ったところ、案の定同じようにいい酒が出来たのです。この酒で、山邑家の酒は江戸の市場でも大好評を得ました。

六甲山系に源を発する水が貝殻層を通って伏流し、海岸から浸透してきた塩分と混じった水です。硬度8度前後の硬水で、地下4mの浅井戸に湧いています。 醪の発酵を活発にする燐酸塩やカリウムに富んでおり、ことに燐分は他の地方の酒造用水に比べると10数倍もあるという水です。 西宮の水は、いつしか「宮水」と呼ばれ、いまでも「酒造りの霊水」と言われています。