日本酒物語

第十二話:酒は世につれ

明治から大正に入っても辛口が好まれてきた日本酒は、その当時の世情を如実に映し出して、次第に甘口に傾いていきました。「乱世には甘口の酒が好まれる」という言葉の通りでした。

大正3年(1914)第一次世界大戦に参加。7年には米価の暴騰による米騒動。9年には、大戦後、戦争景気の反動で起こった株や物価の大暴落。さらに12年には関東大震災。昭和に入れば金融恐慌、世界恐慌が激化するなかで、じわじわと軍部が台頭。6年には満州事変、7年には上海事変、そして12年にはついに日華事変と中国大陸に戦火を広げ、16年にはついに第二次世界大戦に突入して、日本は破滅への道をまっしぐらに進んで行きました。 そして、敗戦。本土は焼け野原となり、食糧事情もさらに悪化、原料米は厳しく制限されて、酒の生産は激減してしまい、昭和20年代(1945~1954)は酒造業界は苦難の連続でした。

昭和30年代(1955~1964)になると、日本は高度経済成長期に入り、30年にテレビの放送が始まり、39年には東海道新幹線が開通するなど明るいニュースが続き、酒も次第に出廻ってきましたが、40年代(1965~1974)に入ってもまだ絶対量は不足しており、品質もベストではありませんでした。 この頃、灘、伏見の大手のメーカーは年々何万石と増石していましたが、地方の良心的な中小メーカーはコツコツと酒質の向上につとめ、「全国新酒鑑評会」などに競って出品、好成績をおさめるようになりました。 こういう努力が徐々に愛飲家に知られるようになり、40年代後半から50年代、60年代(1985~1994)と地酒ブームが高まっていきました。

近代化すすむ

日本の代表的な伝統産業である酒造りは、この時代になって、大きく近代化を遂げました。古来の手造りのノウハウをインプットした機械による麹造りや、洗米から蒸米までを連続して行う機械など、省力化と生産効率を高める画期的な方法でした。

さらに日本酒の酒質を高めるのに最も役立ったのが自動精米機の開発でした。製麹機と同じく昭和35年(1960)でしたが、その後コンピューターによる自動制御装置がさらに進歩し、高度精米を要求される吟醸用の精米も理想通りの数値が得られるようになりました。

究極の日本酒を目指して

良質の酒造好適米を高精白して、酒造りに邪魔な部分を取り除き、これまでより一歩も二歩も進んだ酒造技術を駆使して、今、日本酒は史上最高の美酒を醸し出しています。
しかも、酒造技術者たちはそれに満足することなく、さらに上を目指して究極の日本酒造りにはげんでいます。