日本酒物語

第二話:稲が来た道

縄文中期まで、貝や魚、鳥獣肉と雑穀を食べていたわれわれの祖先のもとに、中国・揚子江下流域から北九州福岡県の板付や、佐賀県の菜畑に稲作が伝えられたのは縄文後期のことでした。 この稲作がアワ・ヒエその他の雑穀を押しのけて、やがて日本全土に普及して今日まで主食の座を占めてきたのは、それだけの理由があったのです。

稲の原産地は、中国の雲南省からインド東部のアッサムに至る照葉樹林帯(亜熱帯から暖帯にある常緑広葉樹の樹林帯)と言われていますが、元は湿地帯に生えた雑穀ですから、高温多湿のわが国の気候風土にはぴったりの植物だったのです。
しかも、収穫量が多く、その上、味がいいので日本民族に好まれたのは当然と言えるでしょう。

稲の実・米が主食として定着すると、人びとはご飯からも酒を造ることを試みました。もちろん、雑穀を酒にした口噛みの方法です。この『口噛み酒』は、わが国へは南方系の根菜栽培民族から伝わったと言われており、近年までアイヌの祭りや、沖縄本島や周辺の諸島で神酒として造られていました。呪術や神事に使われていたためか、口噛みをする役目は、穢れを知らない少女か、神に仕える巫女だったそうです。(ただし、『大隅國風土記』には、「男女一所にあつまりて米をかみてさかぶねにはきいれて・・・」とあります)酒を造ることを「かもす(醸す)」と言いますが、この「噛す(かみす)」から来た言葉なのです。

ご飯を噛むと、米の中のデンプンが唾液に含まれるアミラーゼ(糖化酵素)の働きでブドウ糖に変わります。これを壷などに入れておくと、ここに空気中の野生酵母が入って来て発酵し、酒になります。これが『口噛み酒』の製法です。
縄文晩期から弥生時代(BC300~AD300)に入ると水稲耕作は西日本から日本列島へと広がりをみせ、これまでの狩猟と採集の人々の食生活は稲作を中心とする農耕生活が主体の弥生文化が生まれました。

米からつくる酒も、人々の間で盛んに醸されて楽しむようになったでしょう。 ただ、『口噛み酒』は、一度に大量は造れません。ところが、弥生後期の3世紀に書かれた中国の史書『魏志倭人伝』の中で、「倭人(日本人)は父子男女の別無く、酒を良く飲む」とあります。これは葬儀のあとの飲食の場なので、人数も多く、酒の量も多かったはずです。 とすると、「米の酒」は、この頃はもう、口噛みより一歩進んだ技術で造られていたのではないか─── それを裏付けする文献があったのです。

次の奈良時代の初期に出た民族誌『播磨國風土記』に、「神棚に備えた御饌(みけ:米飯)が雨に濡れてカビが生えたので、これで酒を醸して神に捧げ、あと宴を催した」とあります。これは麹カビで酒が作れることがわかっていた証拠で、米を原料とする酒造りの出発点がここにあったのです。