日本酒物語

第九話:現代の酒器は江戸時代中期から

酒が神のものであった太古から平安時代あたりまでは土器(かわらけ)に酒を注いで供えていましたが、中世以降は朱塗りの大型の木杯が使われ、大ぜいで冷酒を飲み回す酒宴が行われていました。当時の酒はアルコール分が現代の半分ぐらいしかなかったので、少しでは酔わなかったのです。

近世になって、酒のアルコール濃度が高くなったことと、遊里の発達で酒宴の形式が少人数になってきたので、杯の大きさが小型になり、陶磁器の猪口がいろいろ作られるようになりました。 一方、酒を注ぐ器は、神に供えるには上が広く、下が細い、口が小さな壷型の「瓶子(へいし)」で現代でも神前にはこれが供えられています。

中世になり、室町時代に入ると、徳利、提(ひさげ)、銚子(ちょうし)などが使われるようになりました。 徳利は、酒の運搬と貯蔵を兼ねた1升から3升入りのもので、これから、手のある蓋のない片口のような提に分け、さらに酌に使う銚子に小分けしていました。 銚子は、今我々が日常使っている1合徳利(実は7、8勺入り)とは違い、現在、結婚式で巫女(みこ)が三三九度の固めの酒を注ぐときに使うのと同じものです。

燗酒の風習広まる

江戸の中期になると、酒を燗して飲む風習が広まり、そのまま火にかけて燗が出来る燗鍋や、湯煎する1、2合入りの燗徳利が出現しました。
酒を燗して飲む方法は、平安時代貴族たちが菊の節句(9月9日)から翌年の桃の節句まで酒を温めて飲んでいたという記録がありますが、一般庶民が燗をするようになったのはこの頃からで、儒者で福岡藩医をしていた貝原益軒(1630~1714)の著書『養生訓』の影響だったようです。この著書には「酒は冷飲も熱飲もよくない。胃腸をこわす。ぬる燗の酒がいい」と。
この言葉が巷間に伝わり、燗をする道具や猪口がいろいろ出廻り、日本酒は燗をして飲むのが常識のようになりました。

献酬が生んだ盃洗(はいせん)

大杯の廻し飲みから、小さな杯で個人個人が飲むようになると、人間関係を求めて杯のやりとりをする風習が生まれました。親しさが増してよろこばしいことですが、唇がふれた杯をそのまま相手に渡すのは礼儀に反すると、杯を洗う道具が考えられました。
江戸末期のことでしたが、当時、「盃スマシノ丼(どんぶり)」と言い、明治になってから「盃洗」と呼ばれるようになりました。
「親子水入らず」とか、「夫婦水入らず」と言う言葉は、親子や夫婦の間に盃洗はいらないというところから出来た言葉です。