日本酒物語

第十一話:めざましい醸造科学の進歩

明治28年(1895)の清酒酵母の発見は、酒造史上大きなエポックでしたが、明治37年(1904)発足した国立醸造試験所と日本醸造協会の活躍もめざましく、全国の醸造家たちの関心を集めました。

1. 火おち対策

長い伝統に支えられて造り続けて来た日本酒ですが、昔から一つの悩みがありました。それは、酒にとって最もこわい病気である「火落ち菌」による腐造です。
タンクの中で醪は20%近くアルコールを造りますから、大ていの細菌は死滅してしまいますが、「火落ち菌」はアルコールに強いので、ひとたびタンクに入るとどんどん増殖して酒が白濁したり、異臭を放って飲めなくなってしまいます。これを腐造と言います。

「三度腐造を続けると身上(しんしょう)をつぶす」と言われ、酒造業は大変不安定な企業とされて、明治の末頃まで銀行は融資をしなかったそうです。そのため、政府は防腐剤サリチル酸の使用を認め、発足早々の日本醸造協会から全国の酒造家に頒布を始め、昭和44年まで続いていました。

2.「山廃」の開発

「山廃」とは、「山卸廃止(やまおろしはいし)もと」の略で、「山卸(やまおろし)」を廃止したもと(酒母)造りのことです。
昔の酒造りは、米を蒸し、これに種麹を植えて麹を造ります。この麹を盥(たらい)のような背の低い半切り桶(はんぎりおけ)に入れて冷水に漬け、撹拌して水麹にします。これに蒸し米を山のように入れ、擢で摺り潰します。山を突きくずすので「山卸し」という名が付いたようです。
この方法を「生もと」あるいは「摺りもと」と言い、根気よくこの摺りもとを行いながら、空気中の酵母や乳酸菌が入って来て発酵するのを待ちます。
ただ、数多くの半切り桶を並べるので広い場所が必要であり、ひとつの桶を2人か3人でもとを摺るので、人数も時間もかかります。この作業が大変なのでこれを廃止して、簡潔に改良したのが「山卸廃止もと」略して「山廃」です。明治42年(1909)のことでした。

3. 速醸もとも開発

しかし、「山廃」も30日はかかり、手間もかかるので、空気中の酵母や乳酸菌が入って来るのを待たず、これらを添加することによって、2週間ぐらいでもとを造る方法を、これも同じ明治42年に考え出しました。 これを「速醸もと」と言い、現在の酒造りの大半はこの方法で行なっています。

樽から瓶へ

超辛口だった明治期の酒は、大正にはいると「超」が取れて、日本酒度プラス3〜4を推移しました。中期になると、現在のような王冠つきの1升瓶が実用化して、次第に酒青瓶(さかあおびん)が酒屋の棚に並ぶようになりました。